COLUMN

1-ターンパイク誕生

 箱根ターンパイクの頂上は「大観山」。私は長年「だいかんざん」と呼んでいたが、いつだったか、この頂は日本画壇の巨匠・横山大観にちなんだもので、「たいかんざん」と読むのだと知った。

 大観山は、富士の絶景ポイントのひとつである。横山大観は富士を好んで画題にしたから、ここから見た富士の作品もあるのだろうと思っていたが、ざっと見た感じ、いかにもそれらしい構図、つまり手前に芦ノ湖がありその向こうに箱根外輪山、さらに奥に富士が聳える形のものは見当たらなかった。大観先生はここからスケッチしたわけではないのだろうか。

 そんな大観山は、標高1011メートル。そこまで駆け上がる箱根ターンパイクの出発点は、標高0メートルではないが、海岸の間近だ。わずか14キロの間に、一気に標高を約1000メートルも稼ぐ、もの凄い道路である。

 軽井沢の標高も約1000メートルだが、そこへの上り坂は延々と長くつらい。ふもとの横川の標高は約400メートル。そこから旧碓氷峠で長野県境まで何キロあるのかと思ったら、ちょうど箱根ターンパイクと同じ14キロだったのにはビックリしたが、とにかくターンパイクのほうが、はるかに勾配が急である。一方カーブの曲率は雄大で、つまり「ゆるい」。勾配は急だが曲率はゆるい。

 旧碓氷峠はその真逆で、勾配はゆるくカーブは非常にきつい。なにせ14キロの間にカーブが184もある。私は小さい頃、父のクルマでこの峠を上るたびに、気持ち悪くなって吐いた。あれは本当に苦しかった……。

 対する箱根ターンパイクは、カーブが緩いから実に快適だ。14キロの間にカーブがいくつあるかというと、地図で数えた限り30くらいしかない。それもヘアピンカーブは一か所もなく、すべて高速コーナーである。

 日本全国、こんな雄大なワインディングロードは他にない。いや、海外にもないんじゃないか。

 なぜこんな道路ができたのか。

箱根ターンパイク株式会社より提供

 箱根ターンパイクを造ったのは東急だった。東急の総帥・五島慶太には、渋谷から箱根までを有料道路で結ぶという遠大な計画があった。渋谷から江の島までが東急ターンパイク、そこから小田原までが湘南ターンパイク、そしてその先が箱根ターンパイクである。

しかし東急ターンパイクと湘南ターンパイクは、第三京浜と西湘バイパスと競合するとして認可が下りず、箱根ターンパイクだけ認可が下り、1962年に着工された(私の生まれた年です)。

 渋谷から箱根まで、民間企業が有料道路を建設するなんて、今では考えられないが、当時箱根では、東急・小田急と西武とが、路線バスなどの観光交通手段を巡って激しい縄張り争い(箱根山戦争)を繰り広げていた。ならいっそのこと自社で道路を造ってしまえ! という豪快な発想であろうか?

 考えてみれば、鉄道には多くの民間企業が参入している。東急も小田急も西武もそうだ。道路がダメという法はない。

実は五島慶太は、箱根の観光利権をはるかに超え、東京から神戸まで、そして日本全国に高速道路網を建設・運営する構想を持っていた。つまり「鉄道の次は道路だ」と睨んでいたのだ。しかし、日本道路公団を設立した建設省に阻止され、結局認可が下りたのは、箱根ターンパイクだけだった。

豪快な発想から生まれた箱根ターンパイクは、設計も豪快なものになった。当時の自動車(特にバス)の登坂性能やブレーキ性能を無視しているのではないかと思わせる、直線的な急勾配だ。

箱根ターンパイクは、豪快な経営者の豪快な発想から生まれた、奇跡の道路である。こんな道路は、今後二度と建設されることはないだろう。

箱根ターンパイクは快適だ。現代のクルマでここを走っていると、ただ楽しいだけで、つらいことが何もない。クルマ好きの聖地になるのは当然すぎるほど当然。ああ、日本に箱根ターンパイクがあってよかった。

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